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2012年01月22日

スフィンクスの謎掛けに思う事

朝は4本足
昼には2本足
夕刻は3本足で
夜には8本足



最後の一節は後世フランスで付け加えられたものとも聞くが、人の一生を言い表わしたものだそうだ。
これを憶えていたお陰で、次男の関行きが近付いた2年前頃、思い出した事がある。
それを今更だが、身内の死を意識しなければならなくなった今、備忘の意味も兼ねて、アップしておこうと思うのだ。

いつそんな事を考え着いたのか、今では憶えていないのだが、人の人生というのは、他人の面倒を見たり見られたりして始まり終るという一側面を持っている。
幼少期から少年期までは親又はそれに代わる他者に面倒を看てもらいながら過ごし、青年期には誰にも面倒を掛けずに過ごすが、誰かの面倒を見る事も無い。壮年期に入れば結婚等によって他者の面倒を見、かつ見られる様になる。
そして中年期には面倒を見る量が見られる量を圧倒的に超え、老年期に入るとストンと見る量が激減するのである。その意味での中年期と老年期の境目(トワイライト・ゾーン)は、はっきりした人もいれば、かなり曖昧な人もいて、個人差は大きい。昔は男女差も大きいとされていたが、今はそうでもなさそうだ。
それが、4本足、2本足、3本足の時期に(比喩的に)対応するだろう。
そして連れ合いとも死別したりして、面倒を看る相手は、最後には1人もいなくなり、面倒を看られるのみの存在となる。

老人が「死にたい」と言い出すのが、大概この時期なのだそうだ。
体が思うように動かなくなり、ペットすら自分1人で飼い続けられなくなった時、人は面倒を看る能力を失ったと感じ、アクティヴな意味での生存能力を手放してしまったと考える様になるのではないだろうか。

だが、「3本足(杖を突いて歩かねばならなくなるからだそうだ)」の時期に入った時、全く他者の面倒を見なく(=見られなく)なるのかと云うと、必ずしもそうではなかろう。
今、小生は2本足の時期を25年以上過ごして来ている。
肉体的には、もう15年程で3本足の時期を迎えるのではと思っているが(腰痛持ちなので、腰が曲がるのも早かろう)、葬列の中心で8本足(棺桶担ぎ)に囲まれて墓場までの最後の散歩をするまでには、50年は欲しいと思っている。
そんなに長生きしたら、まだ見ぬ孫や曾孫に面倒を掛けっ放しになってしまいはしないかと心配してしまうが、それでも、目と耳と舌が働く内は、他人の面倒を一片たりとも看られなくなったとは思わない。
体も弱り、杖に頼らねば外出もままならないとしても、社会的には働けない歳になっていたとしても、人間、目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったりするのは、滅多に無い事の様だ。
それなら、身近な家族の話相手くらいなら、死ぬまで現役でいられるだろうし、頭がまともに働いている内は、孫や曾孫に教えてやれる事の一つや二つは、あるものだろう。
年寄りをナめるんじゃねェぞ、という気概を、訪ねる度に両親に見、そんなことを思うのである。
今までの経験と知識と舌先三寸だけでも、充分他者の面倒を看る事は出来るという考え方は、老人の存在意義として昔から存在するものだ。それで、いいのではないだろうか。

8本足になるまでは、3本足でヘコむ必要はさらさら無いはずなのだ。
だからもう一度云うが……。
出来ればあと50年は、8本足には無縁でいたいと思う、壇那院なのだった。

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Posted by 壇那院 at 10:18│Comments(0)雑感
 
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