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2014年01月28日

帰省記2014(2):親父、生き仏様となる

小生の両親のことを、ここで語った事はあまり無かったと思うが、今回はその親父(小生の父親)のハナシが中心になる。

      *

小生の親父は、今年84才になる。61の歳に狭心症の発作で一度倒れて以来、ニトロのDDSパッチを胸に常時貼っている生活を22年間続けていたのだが、昨年11月、脳梗塞で倒れたと、親父の近所に住む(と云っても車で1時間弱のところだ)妹から連絡が入った。
幸い、命に別状は無く、翌日には意識を回復し、1週間後には症状も安定して退院となった。
で、無事退院となったのだが、お袋と共に退院に付き添った妹によると、我が親父殿、脳内の一部分がやはり少し壊れたらしく、少々ボケて来たとのことだった。
自分の年齢を47と言い出したり、故郷(親父は群馬の出身だ)に帰ると言い出したり……。(親父の一族は昭和30年くらいには全員東京に出て来てしまっている)
親父47才の時と云えば小生は18才であり、むろん結婚はしていなかったし、まだ同居していた。親父の孫は、姉のところの長女1人だけだった頃である。
幸い、現在自分には10人の孫と2人の曾孫がいる事は憶えていたそうで、聞いた息子は胸をなで下ろしたことだった。
しかし、それでもお袋には不安があったらしく、滅多に顔を見せない長男(小生のことだ)一家の現在の写真を送れと頼まれた。言わなかったが、3回程度しか会った事がない末っ娘が、親父に判るかどうか自信が無かったのだろう。
少なくとも、モエと味馬鹿にはそういう小生の推測を伝えて、珍しい事この上ない、我が家の家族写真を撮って、12月初めに伊豆に送っておいたのだった。

そして、正月を迎えたのだ。
 
一家で親父に会いに行くのは実に久し振りで、行く決心をしたのは、実は1月2日、カミさんの実家にいる時だった。
実はこの日の夕方になるまで、豊明からの帰路をどうするか、決めていなかったのだ。
年末にカミさんと相談した時には、一旦国分寺に直帰し、あらためて小生と倅共だけで日帰りする事にしていたのだが、豊明に行ってから考えが変わった。
たとえ親父が末っ娘を認識出来なかったとしても、それも「人の死」を認識するための、ひとつの体験なのではないかと考え始めたのである。
現代の若い世代に、決定的に不足しており、かつ「時代だから」と容認してはいけないものの一つに、「死の体験の不足」があるように思っている。
小生や今50代以降の人間だと、親戚の死に直面するまで、身近で若いうちに「ヒトの死」に直面する機会はひどく少なくなった。
小生からして幼少期に死人に対面したのは、修学前に一家で住んでいた借家の大家さんが亡くなった時が最初で、その爺さんが癌で寝込んでからの6ヶ月、ほとんど実の祖父同然に付き合っていたヒトが徐々に死んでいくのを、遊びに行くたびに直面したのは、今から考えると得難い体験だったと思っている。
今、ヒトはひっそり死んで行く。子供達に死に様を見せて死ぬ人は、一般にはほとんどいなくなった。周囲の大人が見せないからだ。
団地暮らしのせいで、集会所で近所の葬式が行われ時、偶然自治会役員だったのなら顔を出すから、今時の葬式に、親族が子供を連れて来ることが減った事は、重々知っている。
急に決めたのでカミさんは不満そうだったが、子供達には伊豆に向かう車中で、言って聞かせておいた。伊豆の祖父さんがお前達を判らない可能性は、あるのだと。
小生自身は自分の実の祖父2人の死に目には会っていない。小生が生まれる前に死んでいるのだ。父方の祖母もそうである。戦後すぐに死んだらしく、実はお袋も、親父と結婚した時に会っていないらしい。
母方の祖母だけは実に102才まで生きたので、小生はおろかカミさんも、モエ長男も会っているのだが、89才の時から痴呆が進んで、もう生まれていたのだが、味馬鹿次男も末っ娘も、曾祖母さんには会わせていない。
祖母さんがボケたと聞いて慌てて電話したあの時の、孫の小生のことが判らなかった祖母の反応に直面した小生のショックは、今でも憶えているが、なぜ覚悟を決めて、味馬鹿を連れて会いに行かなかったのかと、今では後悔しているのである。
だからという訳だけではないが、ここで、末っ娘を親父の会わせるべきだと考えを変えたのだ。
カミさんは末っ娘が傷付くことを最も危惧していたのだが、逆に、若くて柔軟なうちに、体験させておくべきなのだと、小生は思ったのである。
末っ娘も14才。多感な年頃ではあるが、頭では判っていると、信じていた。

そんな訳で、3日の早朝に豊明を出発すると、今度は豊田JCTで東名道に乗り、沼津ICから伊豆の親父の家に向かったのである。

着いてみると、窓からお袋が顔を見せたが、様子がおかしい。
玄関を開けてみると、上り框(がまち)に親父が倒れていた。
お袋と、妹(52才)もいる。
これ幸いな男手登場という訳だが、とにかく寝室まで男3人で祖父さんを担ぎ込み、布団に寝かせた。3人共消防ボランティアや少年団で、救命講習や搬送訓練を受けているのが、こういう時に役に立つ。
またも脳の血管が詰まったかと心配したが、ボケに連動した異常行動の結果、急に過労状態になって倒れることが、けっこう頻発していたのだと、妹から聞いた。
なんとか玄関まで引き上げたところで、小生達が到着したのだそうだ。(妹は幼少時から恰幅が良く、結構力があるのだ)
あとはお袋に任せるしかない。なにしろ親父の女房大事は、こんな倅が云うのもなンだが、ほとんど異常ともいえるレベルだったのは、元気だった頃からのことだ。たとえ娘の世話でも、かなりの子供返りを起こしているだろう現状では、受け付けないだろうからだし、その判断は現場にいた妹も同様だった。又、その親父の女房たるお袋の、亭主大事も呆れるレベルのものなので、どうにも手が出せないのである。
しばらくはお袋に任せて、別室で様子を見ながら、妹に状況を聞いた。
4月からは訪問ヘルパーを頼んでいるそうだが、それはお袋の様子を観察しながらになるそうだ。お袋としては、体が保つ限りは、ひとりで親父の世話をしたいのだとか。
なにしろ親父殿、ほとんど夜寝なくなってしまったのだそうで、見張っていないと突然出て行ってしまうのだそうである。
一応、散歩という事らしいが、親父の頭の中では、どんなイメージが湧き上がっているのか、知れたものではない。
誰も一族の者がいない故郷に、帰ろうとしているのかも知れないのだ。
とにかく、市に依頼すればすぐにでもヘルパー訪問は実現する体制なのだが、お袋の希望で4月からという事にしているのだという訳だ。
この年代(昭和4年生まれ)の女としては背が高い方であるお袋が、ひどく小さく見えてしまったのは本音である。

親父の家にいたのは2時間にも満たない間だった。
お袋が、モエ長男と味馬鹿次男を順に寝室に呼び寄せている。
親父が意識を回復したらしい。
寝たままの親父(祖父)と、なにやらボソボソ話していた。味馬鹿が自分の妹(末っ娘)を呼んだ。小生も脇に控える。
心配は杞憂に帰した。
親父は、目の前の中学生の女の子が、孫であることを判っていた。
カミさんが後ろで心配顔だった。末っ娘の後、小生が呼び寄せた。親父にとって唯ひとりの嫁だからか、その亭主が心配が絶えないボンクラ息子だからか、親父がカミさんをかわいがる様は、昔から面映ゆいくらいだったので、血縁ではないからというカミさんの遠慮は、かえって親父を凹ます事になりかねない。
案の定、親父は小声でカミさんに「倅と孫を頼む」と「ありがとう」を繰り返している。
とにかく、親父がこんなに「ありがとう」を連発するところを見るのは、生まれて初めてだった。
小生自身が直接言われたのは、さて、6才の時以来だろうか。誉められた事はあっても、礼を親父に言われたことが、ほとんど無い事に、この時になって気が付いた。
泣き声を漏らしそうになるのを堪えるのに、かなりの努力が要ったのは、確かである。

そして、立派な子供達を持った、と思った。

ひる前に伊豆を出、厚木で高速を下りてから遅い昼飯にして、国分寺に帰宅した時には、まだ明るかった。
小生にはちょっと切ない、帰省ではあったのだが、子供達にはどういうものが残ったろうか。




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Posted by 壇那院 at 14:08│Comments(0)出掛ける
 
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