2012年09月19日
星守る犬
去年の6月7日、カミさんが試写会のペアチケットを当てたので、カミさんと末っ娘で武蔵村山まで『星守る犬』を観に行った事があった。
小生はまだ、ちょっと観られないと思って、遠慮しておいた。
『星守る犬』は、村上たかしの同名の中編マンガを原作とした映画なのだが、その前々年、実はカミさんが原作を買って来ていたのである。だが、小生にその存在を徹底して秘密にしていたのだ。モエ長男も味馬鹿次男も、末っ娘すらその本の存在を知っており、読んですらいたのに、であった。
2009年の10月頃なのだそうで、その頃といえば、小生は失業保険ももう切れる寸前という、それこそ気もそぞろの時期である。そんな時に、病気して失業して家族も離散してしまい、愛犬1頭が寄り添うだけで原野のど真ん中で孤独死(無縁死)する50男の物語なぞ、カミさんの立場からすれば読ませられる訳が無かったのだろう。
小生はまだ、ちょっと観られないと思って、遠慮しておいた。
『星守る犬』は、村上たかしの同名の中編マンガを原作とした映画なのだが、その前々年、実はカミさんが原作を買って来ていたのである。だが、小生にその存在を徹底して秘密にしていたのだ。モエ長男も味馬鹿次男も、末っ娘すらその本の存在を知っており、読んですらいたのに、であった。
2009年の10月頃なのだそうで、その頃といえば、小生は失業保険ももう切れる寸前という、それこそ気もそぞろの時期である。そんな時に、病気して失業して家族も離散してしまい、愛犬1頭が寄り添うだけで原野のど真ん中で孤独死(無縁死)する50男の物語なぞ、カミさんの立場からすれば読ませられる訳が無かったのだろう。
映画の方は、小生も好きな西田敏行さんが主演なので、その点では興味が湧く映画だったのだが、調べてみた限り、原作のマンガとはかなり構成を変えた物語だったらしい。登場人物も、原作では台詞も無かったチョイ役に、小さなドラマがあったりしている様だ。
見てきたカミさんによれば、海沿いの東北の町並みの映像にも、感動するとのこと。今はもう、その映像の街並みは津波にさらわれ、存在しない。カミさんは当たった農業体験ツアーで松島に行った事があるので、感慨もひとしおだったろう。
この映画のチケットが当たったのを機に、カミさんもこの原作コミックが我が家に存在する事を小生に明かしてくれたのだが、やはりその場(6月初め)では第1章を飛ばし読みしただけだった。7月も中旬になって、やっと全編を精読したのである。
つらいはなしだ。
冒頭に述べた様に、名も知れぬ中年男の、野垂れ死にの物語である。小生の当時の立場で、つらくない訳が無い。
が、同時に、これは犬の物語でもあるのだ、と気づいたのだ。
男の犬、ハッピーの独白じみた内容の、単純だが考え込まされる台詞は、最後までブレること無く読者の心に滲み入るだろう。
そしてそこから、男は幸福な最期を迎えたのか、と考えてしまう。
作者はあとがきで、この男の最期があまりに惨めにならないように、と、ハッピーという犬を配したと書いている。男は最期に際し、ハッピーを抱き締め、礼を言った。
少なくとも、彼は惨めな最期を迎えたとは思っていなかったし、それがハッピーの存在のおかげだった事も、判っていたのだろう。
それに、ハッピーの独白で、必ず彼は、「おとうさん」だったのが意味深長だ。彼は、最後まで「おとうさん」でありたかったのかも知れない。それが、ハッピーに伝わっていたのではなかろうかと、思うのだ。
犬にとっての「おとうさん」は、つまりは家族という群のボスだ。ボスは、この場合は庇護者であり、指導者であり、教育者でもある。そして、自然の中では、時期が来れば放逐者となるが、ヒトとの関わりでは承認者となる時の方が多いように思う。
つまり、犬にとっては絶対的な信頼の対象なのである。
一部の人間の男には、同じ様な存在としての家長でありたいという願望がある。
それは、明治以降の日本や中世ヨーロッパなどでの「家父長」ではなく、あくまで生活単位としての「家族」のリーダーとしての「おとうさん」だ。そこにシステマチックな強権は、存在しない。
だから犬好きには、男女を問わずリーダー・タイプの人間が多いのだなどと、見てきたような法螺を吹くつもりは無いが、案外そうなのではないかと、実は考えているのである。
そう思うのは、やはり小生自身が最期まで「おとうさん」でありたいと思うからなのだろう。
小生の人生の最後を看取る者は、カミさんではあり得ない。結婚した時のカミさんとの約束から、そういうコトになっているのである。
となれば、小生の最期は、ペットと共に過ごされる公算は、高い。
だからなのか、小生には、重い作品だった。
今月中旬、映画のDVDをやっと観た。
カミさんの言う通り、演出のせいで原作とは少し雰囲気の違う作品に仕上がっていた。
とは云え、やはりハッピーの視点で観ている自分に、気付いていた。
そして「おとうさん」の視点に立ち返って考えてしまう。
ハッピー同様、その時小生を看取ってくれる者を、小生は幸せにしてやれるのだろうか?
見てきたカミさんによれば、海沿いの東北の町並みの映像にも、感動するとのこと。今はもう、その映像の街並みは津波にさらわれ、存在しない。カミさんは当たった農業体験ツアーで松島に行った事があるので、感慨もひとしおだったろう。
この映画のチケットが当たったのを機に、カミさんもこの原作コミックが我が家に存在する事を小生に明かしてくれたのだが、やはりその場(6月初め)では第1章を飛ばし読みしただけだった。7月も中旬になって、やっと全編を精読したのである。
つらいはなしだ。
冒頭に述べた様に、名も知れぬ中年男の、野垂れ死にの物語である。小生の当時の立場で、つらくない訳が無い。
が、同時に、これは犬の物語でもあるのだ、と気づいたのだ。
男の犬、ハッピーの独白じみた内容の、単純だが考え込まされる台詞は、最後までブレること無く読者の心に滲み入るだろう。
そしてそこから、男は幸福な最期を迎えたのか、と考えてしまう。
作者はあとがきで、この男の最期があまりに惨めにならないように、と、ハッピーという犬を配したと書いている。男は最期に際し、ハッピーを抱き締め、礼を言った。
少なくとも、彼は惨めな最期を迎えたとは思っていなかったし、それがハッピーの存在のおかげだった事も、判っていたのだろう。
それに、ハッピーの独白で、必ず彼は、「おとうさん」だったのが意味深長だ。彼は、最後まで「おとうさん」でありたかったのかも知れない。それが、ハッピーに伝わっていたのではなかろうかと、思うのだ。
犬にとっての「おとうさん」は、つまりは家族という群のボスだ。ボスは、この場合は庇護者であり、指導者であり、教育者でもある。そして、自然の中では、時期が来れば放逐者となるが、ヒトとの関わりでは承認者となる時の方が多いように思う。
つまり、犬にとっては絶対的な信頼の対象なのである。
一部の人間の男には、同じ様な存在としての家長でありたいという願望がある。
それは、明治以降の日本や中世ヨーロッパなどでの「家父長」ではなく、あくまで生活単位としての「家族」のリーダーとしての「おとうさん」だ。そこにシステマチックな強権は、存在しない。
だから犬好きには、男女を問わずリーダー・タイプの人間が多いのだなどと、見てきたような法螺を吹くつもりは無いが、案外そうなのではないかと、実は考えているのである。
そう思うのは、やはり小生自身が最期まで「おとうさん」でありたいと思うからなのだろう。
小生の人生の最後を看取る者は、カミさんではあり得ない。結婚した時のカミさんとの約束から、そういうコトになっているのである。
となれば、小生の最期は、ペットと共に過ごされる公算は、高い。
だからなのか、小生には、重い作品だった。
今月中旬、映画のDVDをやっと観た。
カミさんの言う通り、演出のせいで原作とは少し雰囲気の違う作品に仕上がっていた。
とは云え、やはりハッピーの視点で観ている自分に、気付いていた。
そして「おとうさん」の視点に立ち返って考えてしまう。
ハッピー同様、その時小生を看取ってくれる者を、小生は幸せにしてやれるのだろうか?
Posted by 壇那院 at 00:02│Comments(0)
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