2011年03月20日
徒歩では帰れない勤務地
3月11日1448時頃、川崎市内のあるビルの地下駐車場で、大きな横揺れを感じた。
ちょうどエンジンをかけ、出ようとしていたところだったので、一瞬、エンジンの異常震動かと思ったが、周期が異常に長い。地震だと気付くのに数秒かかったと思う。
ちょうどエンジンをかけ、出ようとしていたところだったので、一瞬、エンジンの異常震動かと思ったが、周期が異常に長い。地震だと気付くのに数秒かかったと思う。
とりあえず、駐車場出口に移動し、様子を見ることにした。
窓をあけ、駐車場の天井を凝視していた。クラック(ひび)が目に見えて成長し始めたら、揺れにかまわず車を発進させるつもりだった。
長い揺れだった。3分くらいは続いたと感じたが、後でTVで見てみると、3つの震源を持つ、3連続の地震だったそうで、5分以上続いたらしい。
揺れがおさまってから、ゆっくり発進。通常の業務コースでも、もう武蔵中原駅前のメール・センターに戻る手順だ。
普段なら5~6分で戻るところを、10分以上かけて戻る。
門に着くと、いつもの門衛の警備員氏以外に、工場の総務の人間らしいのが大挙して立っている。その向こうは人で一杯だが、まだ車が通れる程度だ。メール・センターはこの門から、工場を縦断した反対端にある。外に飛び出して来ている人の群の間を縫うように、最徐行で進む。この約500メートルに、1000人を超える人が立ち、歩いていたのではないか。この工場にこんなに人間が勤務していたとは思わなかった。
メール・センターの前はまだ人が少ない。いつも荷捌き作業時に停めているスペースに車を停め、センターに入ると、職員達も避難準備中。結局、車の電源をONにしてラジオをつけっ放しにし、しばらく屋外に立つ。30分後には、都心方面の便を担当している同僚も戻って来たが、その頃には工場に車で入れず、近所にあった会社借り上げの月極め駐車場に停めて、徒歩での合流となった。早退帰宅指示が各部署で出始めたらしく、センターから近い正門がごった返していたのだ。
実はこの時点で小生の担当コースは最後の便が未発だったのだが、これのキャンセルが正式に決定したのは、3箇所の集配先と連絡が取れた1630時になってからだった。小生はそれまでは、どうせ駄目なのは判っていても、センターに待機していたのである。
それに、いつもは電車(南武線)で立川からの通勤である小生には、鉄道が完全に止まっている現在、帰宅する通常の手段が喪失している。南武線が復旧するか、18時までセンターに居残って様子見だ。
街は、完全に停電していた。
その間に、バッテリーがあがって中継器が機能停止していない地域は、工場周辺だけになった様だ。工場は自前の非常電源で、最低限の電力を確保していたからだ。それでも携帯(docomo)ではメールを発信する事しか出来ないが、東京・江東区内の本部と家族には安否連絡メールを発信しておく。どちらも、18時までには、返信があった。岐阜の味馬鹿次男の返信が最も早かったのは当然だが、本部とカミさんの返信があったのは幸運だった。
本部には状況と業務用車での帰宅許可を、折り返し求める。この時点で、南武線の終日運休は決定的だと、確信していた。同僚はもう、自分の担当車で出発し、彼の分の許可も求めていた。彼も神奈川県西部に家があり、帰宅距離は小生より遠い45キロにもなるのだとか。(小生は35キロ)
1910時、待ち切れずに出発。
直後、車での帰宅許可のメールが着信した。
立川市北部と国分寺市西部の市境が錯綜している地域にある自宅に、帰り着いたのは、2230時であった。
今の勤務先の地理的な問題点は、個人的にはここにあるのは、最初から判っていた。
川崎市中原区から東京・三多摩の自宅までの距離が、徒歩で踏破するには素人の小生では1日を超えるのだ。通常、訓練された歩兵が徒歩行軍して進める1日の距離は、40キロ。1日限りの強行軍で60~80キロとされている。江戸時代、東海道53次550キロを旅人は平均15日、健脚な人で10日余りで踏破したそうだが、これも整備された道を歩いて、の場合である。
直下型地震などで瓦礫の山となったこの街を徒歩で踏破して、35キロを1日で歩き通すことは、まず無理なのだ。しかも、間には多摩川という天然の要害がある。通行可能な橋を探すだけでも、1日潰してしまうだろう。
今回、この最悪想定の事態にはならなかったばかりか、東京と川崎・横浜は被災地とはならなかった。
だが、公共交通がストップすれば、こうなるのである。
この日は金曜だったので次の出勤は3日後だったが、南武線が復旧して再開したのは、15日の火曜日からだった。そして、仕事が車での配送業務だけに、今度はガソリンの心配と、いつもとはパターンが全く違う渋滞に悩まされている。
1週間たった今でも、それは続いているのだ。
当日夜の川崎市中原区内。停電で道路沿いの住宅は非常灯だけ点いていた。
数日後の立川駅北口で。5階建て以上のビルではこの近辺で最も古い建物だと思うのだが、震度5弱でもこの有様である。
窓をあけ、駐車場の天井を凝視していた。クラック(ひび)が目に見えて成長し始めたら、揺れにかまわず車を発進させるつもりだった。
長い揺れだった。3分くらいは続いたと感じたが、後でTVで見てみると、3つの震源を持つ、3連続の地震だったそうで、5分以上続いたらしい。
揺れがおさまってから、ゆっくり発進。通常の業務コースでも、もう武蔵中原駅前のメール・センターに戻る手順だ。
普段なら5~6分で戻るところを、10分以上かけて戻る。
門に着くと、いつもの門衛の警備員氏以外に、工場の総務の人間らしいのが大挙して立っている。その向こうは人で一杯だが、まだ車が通れる程度だ。メール・センターはこの門から、工場を縦断した反対端にある。外に飛び出して来ている人の群の間を縫うように、最徐行で進む。この約500メートルに、1000人を超える人が立ち、歩いていたのではないか。この工場にこんなに人間が勤務していたとは思わなかった。
メール・センターの前はまだ人が少ない。いつも荷捌き作業時に停めているスペースに車を停め、センターに入ると、職員達も避難準備中。結局、車の電源をONにしてラジオをつけっ放しにし、しばらく屋外に立つ。30分後には、都心方面の便を担当している同僚も戻って来たが、その頃には工場に車で入れず、近所にあった会社借り上げの月極め駐車場に停めて、徒歩での合流となった。早退帰宅指示が各部署で出始めたらしく、センターから近い正門がごった返していたのだ。
実はこの時点で小生の担当コースは最後の便が未発だったのだが、これのキャンセルが正式に決定したのは、3箇所の集配先と連絡が取れた1630時になってからだった。小生はそれまでは、どうせ駄目なのは判っていても、センターに待機していたのである。
それに、いつもは電車(南武線)で立川からの通勤である小生には、鉄道が完全に止まっている現在、帰宅する通常の手段が喪失している。南武線が復旧するか、18時までセンターに居残って様子見だ。
街は、完全に停電していた。
その間に、バッテリーがあがって中継器が機能停止していない地域は、工場周辺だけになった様だ。工場は自前の非常電源で、最低限の電力を確保していたからだ。それでも携帯(docomo)ではメールを発信する事しか出来ないが、東京・江東区内の本部と家族には安否連絡メールを発信しておく。どちらも、18時までには、返信があった。岐阜の味馬鹿次男の返信が最も早かったのは当然だが、本部とカミさんの返信があったのは幸運だった。
本部には状況と業務用車での帰宅許可を、折り返し求める。この時点で、南武線の終日運休は決定的だと、確信していた。同僚はもう、自分の担当車で出発し、彼の分の許可も求めていた。彼も神奈川県西部に家があり、帰宅距離は小生より遠い45キロにもなるのだとか。(小生は35キロ)
1910時、待ち切れずに出発。
直後、車での帰宅許可のメールが着信した。
立川市北部と国分寺市西部の市境が錯綜している地域にある自宅に、帰り着いたのは、2230時であった。
今の勤務先の地理的な問題点は、個人的にはここにあるのは、最初から判っていた。
川崎市中原区から東京・三多摩の自宅までの距離が、徒歩で踏破するには素人の小生では1日を超えるのだ。通常、訓練された歩兵が徒歩行軍して進める1日の距離は、40キロ。1日限りの強行軍で60~80キロとされている。江戸時代、東海道53次550キロを旅人は平均15日、健脚な人で10日余りで踏破したそうだが、これも整備された道を歩いて、の場合である。
直下型地震などで瓦礫の山となったこの街を徒歩で踏破して、35キロを1日で歩き通すことは、まず無理なのだ。しかも、間には多摩川という天然の要害がある。通行可能な橋を探すだけでも、1日潰してしまうだろう。
今回、この最悪想定の事態にはならなかったばかりか、東京と川崎・横浜は被災地とはならなかった。
だが、公共交通がストップすれば、こうなるのである。
この日は金曜だったので次の出勤は3日後だったが、南武線が復旧して再開したのは、15日の火曜日からだった。そして、仕事が車での配送業務だけに、今度はガソリンの心配と、いつもとはパターンが全く違う渋滞に悩まされている。
1週間たった今でも、それは続いているのだ。

当日夜の川崎市中原区内。停電で道路沿いの住宅は非常灯だけ点いていた。

数日後の立川駅北口で。5階建て以上のビルではこの近辺で最も古い建物だと思うのだが、震度5弱でもこの有様である。
Posted by 壇那院 at 18:12│Comments(3)
│日々是好日
この記事へのコメント
お疲れ様です。
都内でも死者の出た今回の大震災、首都圏でも物資・交通等
かなりの不便は続いているようですが、とりあえずご家族
ともどもお身体には被害がなかったようで、何よりです。
我が家から勤務地までざっと10Km、本気で歩けば2時間でしょうか。
幸い、あいだに一級河川等は挟んでいないので何とか行けそうですが、
私の実家は川の向こうの田んぼの中、バス通学の娘の学校は
私の職場より遠い17Km北の山の麓と、実際大きな地震がきたら
いろいろと不都合なことが起きると予期されます。
しかも、市がつくったハザードマップによれば、私の自宅は「南海地震の
想定浸水被害域」に当たるそうで、30年以内の発生確率が70%だそうですから、
いつかは「来る」ものとして対策しとかなきゃいけませんね。
都内でも死者の出た今回の大震災、首都圏でも物資・交通等
かなりの不便は続いているようですが、とりあえずご家族
ともどもお身体には被害がなかったようで、何よりです。
我が家から勤務地までざっと10Km、本気で歩けば2時間でしょうか。
幸い、あいだに一級河川等は挟んでいないので何とか行けそうですが、
私の実家は川の向こうの田んぼの中、バス通学の娘の学校は
私の職場より遠い17Km北の山の麓と、実際大きな地震がきたら
いろいろと不都合なことが起きると予期されます。
しかも、市がつくったハザードマップによれば、私の自宅は「南海地震の
想定浸水被害域」に当たるそうで、30年以内の発生確率が70%だそうですから、
いつかは「来る」ものとして対策しとかなきゃいけませんね。
Posted by ももっち at 2011年03月21日 16:47
御無沙汰してます。
地震の時、自宅と職場が離れていると、何かと心配ですね。
川崎って何気に遠いですし、檀那院さんが書いていらっしゃるように、南武線が動くようになったのは数日後でしたものね。
それでも、みなさま御無事で、何よりです。
愚息は、地震当日は電車が運休だったため帰れませんでした。
どこへ泊まるんだろうと心配していましたが、友だちとカラオケにいたそうで(-_-;)
人の心配をよそに・・・って感じでした。
あんな時に営業しているカラオケ店があるっていうのにも、ビックリしましたが。
しばらくは、何かと落ち着かない日々が続きそうですが、どうぞお大事にしてくださいませ。
食料調達のために、たぶん檀那院家御用達と思われるスーパーに、日参しているお吟でした^^;
地震の時、自宅と職場が離れていると、何かと心配ですね。
川崎って何気に遠いですし、檀那院さんが書いていらっしゃるように、南武線が動くようになったのは数日後でしたものね。
それでも、みなさま御無事で、何よりです。
愚息は、地震当日は電車が運休だったため帰れませんでした。
どこへ泊まるんだろうと心配していましたが、友だちとカラオケにいたそうで(-_-;)
人の心配をよそに・・・って感じでした。
あんな時に営業しているカラオケ店があるっていうのにも、ビックリしましたが。
しばらくは、何かと落ち着かない日々が続きそうですが、どうぞお大事にしてくださいませ。
食料調達のために、たぶん檀那院家御用達と思われるスーパーに、日参しているお吟でした^^;
Posted by 吟遊詩人 at 2011年03月22日 12:53
コメント返しも50日振りですね。激しく遅れて申し訳無いです。
ももっちさん
叔母の1人が静岡市に住んでるんですが、やはり川が心配ですね。伊豆の両親も2級ですが川ッ傍に住んでいるので、氾濫したりしないか心配しました。後日起きた富士山震源の連鎖地震では。
避難経路上の川は、小さな物でも結構な難関だと思います。
小生の場合、まず多摩川以外特に問題にするような大きな川は無いのですが、自宅から広域避難場所の昭和記念公園までの約3キロがまた難関でして、もっとも交通上安全そうな道路が、下手をすると発災後半日以上、液状化で歩行困難になるかも知れない場所を通っているのです。(同じ地盤のすぐ近くに団地があるので、通らない訳には行かないのですよ)
お吟さん
そうか、息子くんはカラオケであの夜を明かしたのかい。停電地域じゃなかったんだね。
あのCスーパーも、Gスーパーも、しばらくは何も無かったねェ。
うちも、味馬鹿次男が救援物資を持って来てくれなかったら、あぶなかった。
あの日、大学がもう春休みで、カミさんは立川税務署の方でバイトしてたから、簡単に帰宅出来たし、モエ長男のバイト先も国立駅前だったから、急いで自転車で行って緊急閉店の手伝いをしてきたそうだよ。
発災時、ちょうど末っ娘が帰宅した直後でね、モエ長男は留守だったから、一人っきりで学校に避難したそうだ。キャリーにラテだけ詰め込んで、ね。
よくやったと思う。
ももっちさん
叔母の1人が静岡市に住んでるんですが、やはり川が心配ですね。伊豆の両親も2級ですが川ッ傍に住んでいるので、氾濫したりしないか心配しました。後日起きた富士山震源の連鎖地震では。
避難経路上の川は、小さな物でも結構な難関だと思います。
小生の場合、まず多摩川以外特に問題にするような大きな川は無いのですが、自宅から広域避難場所の昭和記念公園までの約3キロがまた難関でして、もっとも交通上安全そうな道路が、下手をすると発災後半日以上、液状化で歩行困難になるかも知れない場所を通っているのです。(同じ地盤のすぐ近くに団地があるので、通らない訳には行かないのですよ)
お吟さん
そうか、息子くんはカラオケであの夜を明かしたのかい。停電地域じゃなかったんだね。
あのCスーパーも、Gスーパーも、しばらくは何も無かったねェ。
うちも、味馬鹿次男が救援物資を持って来てくれなかったら、あぶなかった。
あの日、大学がもう春休みで、カミさんは立川税務署の方でバイトしてたから、簡単に帰宅出来たし、モエ長男のバイト先も国立駅前だったから、急いで自転車で行って緊急閉店の手伝いをしてきたそうだよ。
発災時、ちょうど末っ娘が帰宅した直後でね、モエ長男は留守だったから、一人っきりで学校に避難したそうだ。キャリーにラテだけ詰め込んで、ね。
よくやったと思う。
Posted by 壇那院 at 2011年05月10日 00:29